飲食産業新聞

「和顔愛語」と深い情熱で対処を!

独立して人生を破綻した人も多い
無関普門禅師の七十過ぎての活躍

2015.12.21

 「独立失敗は地獄をみる。会社にしがみつけ!」とは誰が言ったのか、詠ったのか詠み人しらずである。四十代以降になって敢えて独立すべきではない。独立後失敗すると、もっと悲惨な人生が待ち構えている。このような警鐘はよく聞かれる。暮れも近いある日に知人の紹介で四十三歳の男性から「独立したい」相談があった。
 具体的には里山ビジネス支援資金を使って食材等のケータリング事業を行なうというもの。里山の物件も含めての相談であった。「この厳しい経済環境の今どきには珍しいな…」と思いながら、積極的には勧められなかった。過去においても飲食店の独立相談を何度も受けたことがあるが、殆どお止めになることを勧めていた。
 この独立を希望する彼も今日に至るまでには悶々とした日々が続いた筈だ。独立は学歴がない人やそれまでの会社経験で上手くいかない人が逆転をするための一つの手段である。地元では一流企業の経理畑、そして食品会社の営業と、知識と情報は得ているものの、ほとんど何も知らないで独立するパターンである。コンサルやフランチャイズの会社などかもる人は沢山いる。以前からリストラで会社を辞めて、独立して人生を破綻した人は数え切れないほど見て来た。
 しかし、数人に「誰もが反対したり、八割が反対するなら、やったら」とその事業の独立を勧めたことがある。自分自身もそうであったからだ。それは独立したいという強烈な夢と〝火の玉〟のような情熱を感じたからである。
 そういう意味でくだんのように積極的には勧められないが、「本人はどうしてもやりたい」と独立の意欲は強く、「成功も失敗も半々」と想いながら、彼の要望に添えるように努力もし、また、多々ある問題点も強烈に指摘した。
 この里山ビジネス支援の地は私の住む隣の旧保科村(長野市若穂保科)。私にとっても愛着のある地で親近感もある。ここは以前にも触れた京都南禅寺を開山した無関普門禅師(大明国師)の生誕の地である。また、高遠藩、そして会津藩藩主の保科家の発祥の地である。
 南禅寺(臨済宗総本山)寺史によれば、建暦二年(一二一ニ年)に信州保科に生まれ、幼ない時から新潟県管名庄の正円寺に預けられ、十三歳で得度された。その後勉学のため諸方を尋ねたのち、群馬県世良田の長楽寺にいた釈円栄朝につき指導を受けられた。栄朝は栄西の法を嗣いだ方で、無関禅師はここで初めて禅を学ばれた。
 その後、宋から帰国して藤原氏の帰依を受け、その菩提寺東福寺の開山に迎えられていた円爾弁円禅師の門に入り、苦修の年月を重ねられた。建長三年(一ニ五一年)の四十歳の時、更に向上の道を求めて宋に渡り、浄慈寺(じんずじ)の断橋妙倫(だんきょうみょうりん)に参禅することになり、ここに留まること十年余、禅の深興に達し、断橋禅師の法を嗣いで弘長二年(一ニ六ニ年)に帰国された。
 帰国後の無関普門禅師は新潟県の正円寺に帰り、静かに坐禅三昧の時を過していたが、弘安三年(一ニ八ニ年)、師の東福寺円爾禅師が病気であることを知り、七十歳の老躯をいとわず、はるばるお見舞いに上洛された。同年十月十七日に円爾禅師は遷化、その後継の第二代住持が数ヶ月で退任したあと、無関禅師は衆望によって東福寺第三代住持に迎えられた。
 七十歳までの生涯を専ら修行に終始した無関禅師は初めて住持に就住し、十一年後の正応四年(一ニ九一年)十二月十二日、東福寺龍吟庵で遷化された。
 晩年は亀山法皇の帰依を受けて南禅寺の開山となられたのは遷化の年であった。後に後二条天皇より仏心禅師、後醍醐天皇より大明国師の謚号を賜った。塔所は南禅寺山内の天授庵である。
 無関普門禅師を語ることは恐れ多いが、七十歳までの生涯を専ら修行に終始し、その年に摂津国天王寺の光雲寺創建、東福寺住持、八十歳で南禅寺を開山され、生涯を閉じるわけだが、その十年の残された功績は多大なものがあり、当時の仏門界、政界、そして庶民に崇められたことは言うまでもない。
 私は郷土の誇りとして尊敬し、七十過ぎからの活躍に崇拝している。今回独立を夢見る彼にも無関普門禅師の存在と人間の底力と和顔愛語をもっと知って欲しいと思っている。
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